なつにつ記

過去と今を自由に飛びまわる私記/エッセイ。 レトロでファニーでちょっぴり不器用なくらし。 食いしん坊。 短編小説だと思って、お暇な時にぜひに。

イモと私 ~軽トラを追いかけて~

やった、やったよ!

ついに、百均蒸し器でのふかし芋が成功した。

平たく並べて、中火で15〜20分。

蓋がちゃんと閉まってなくてもできた。

今回は紅はるか。ホクホク派なので、結構スキ!

 

イェーイブイブイ、買ってくれた母、見てる?

 

この喜ばしい日を記念して、今回はサツマイモ、とりわけ焼き芋に関する記憶の蓋を開こう。季節はすっかり秋だしね。

 

併せて、前回放送ライブラリーで出会った名作、「焼き芋夫婦の鎌倉冬物語」のことも、かいつまんで話そう。

 

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さつまいも、くり、かぼちゃ....

 

何故私は、これほど無類のイモ好きになったのか。

母には、「きっと、ばっば(父方の祖母)とパパに似たんだよ」と常々言われる。

ちなみに、唯一イモの中でジャガイモをあまり好まないのも、じっじ(父方の祖父)譲りだという。顔も含め、私は父方の血筋が濃いらしい。

 

そうか、イモ好きは遺伝かもな。

近年のイモブームに乗せられたのならまだしも、私のイモ好きは物心つく前からだから、そう考えるのが筋かも。

 

はるか昔の記憶だが、あれはまだ、幼稚園に通ってた頃だと思う。4.5歳くらい。

あの頃、その小さく短い脚で私は、

 

 

500円玉を握りしめ、懸命に、軽トラを追いかけていた。

 

 

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毎年冬になると、古都・鎌倉にリヤカーを引いて焼き芋を売り歩く老夫婦がやってくる。山形県山辺町の吉田政男さん、とよさん夫婦が、冬の出稼ぎとしてこの町で焼き芋を売り始めて40年。純朴な人柄を慕い、行く先々で二人を待つお馴染みさんたち。もらい火による家の全焼など、困難を乗り越えながら一家を支えてきた吉田さん夫婦と、鎌倉の人たちとの交流を描く。心温まる映像の中に、人間の生きざまと文明批評を映し出している。

 

番組のあらすじである。

どうです、すでに名作の香りが、甘い焼き芋の香りが、ぷんぷん匂ってくるでしょう。

 

出稼ぎ労働のピークは、昭和47年。

のべ34万人もの人が、故郷を離れ出稼ぎ列車に乗った。そのほとんどが、吉田さん夫婦のように東北地方出身者だそう。

 

「そこが知りたい」の東京晩飯回に出演した、山形から出稼ぎにきたお父さんの姿が浮かんだ。

natsunitsuki.hatenadiary.jp

 

たいていは、夫が出稼ぎに行き、妻は留守を守るもの、だが、とよさんの「父ちゃん行くなら俺も行く」という一言で、夫婦での焼き芋売りが始まった。

 

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「いぃしや〜きいも〜おいも~ぉ」

 

きた。

 

すかさず母の元へ。

「ママ!焼き芋食べたい!買っていい?」

私の目はらんらんと輝き、その手のひらはすでに頂戴のポーズで上を向いている。

買っていい?と可愛くねだりつつ、自分にそのお金がないことをよくわかっている現金なやつだ。

 

愛か、いじらしさか、その両方か、(あるいは断ったら後が面倒だからか)

母は、金ぴかの500円を財布から取り出して、小さな手に載せた。

 

子供のおやつなど、駄菓子屋で100円あれば十分なのだから、500円も渡すのには抵抗もあったろう。なんとも優しい母である。

(しかも目を離したすきに500円分のイモを、丸々一人で平らげようとする娘にだ。)

 

感謝の言葉もそこそこに、私は握りしめた手のまま急いで玄関を飛び出す。

 

目指すは、焼き芋を売る移動販売車。

 

吉田さんのようにリヤカーではなく、軽トラの荷台に石を敷き詰めてイモを焼く、

お馴染みの歌をスピーカーから流しながら、ほくほく美味しい焼き芋を売る、

あのおじさんの元へ。

 

走る。

 

10棟近くが建て並ぶこの団地は、商売人にとってもお得意の営業ルートだろう。

ぐるりと周回するそのスピードは時速20kmにも満たないだろうが、ぐずぐずしてはいられない。

 

走る。

 

おしとやかとはいえない女の子だった。常に生傷絶えず、外で遊ぶ子供だったので、足の速さには自信がある。

幼少期に、母が私と姉の体力作りのためにマラソン(年の数団地の公園を外周)を義務付けていたが、まさかここで生かされるとは。

 

走る....追いついた!!!!

 

「あの、あの、」

とたんに幼い少女らしく、小さな声でもじもじとする私。

こういうときだけ、おしとやか。

 

運転席から降りたおじさんは、差し出した500円ですべてを察してくれる。

トングで焼き石の中から焼き芋をつかみ、茶色い紙袋に入れ、「大きいのいれといたからね。熱いから気を付けて。」

と、かがんで手渡す。無駄のない動き。

 

「はい、」

 

小さな声で返事をして、再び私は走り出す。

もう急ぐ必要はないが、胸に抱いた温かいぬくもりを、早く味わいたい一心で。

 

そうして家に戻るなり、まだ熱々の、甘くてホクホクの焼き芋にありつくのだ。

 

 

ああ、あのおじさんの焼きいも、なんておいしかったことだろう。

今となっては、幻のようで、思い出せない。

 

確かなのは、ねっとりではなく、ほくほくだったこと。

大きくて立派な、さつまいもだったこと。

 

そのため今も、幼児期に形成された味覚のままの私は、「イモはほくほくで大きいイモにかぎる」と頑固おやじのように語るのだ。

 

野菜売り場でこのようにスリムなイモたちを見かけるたび、

なぜか悲しくなるのも、そのせいだ。

 

そのくらい、おじさんの焼き芋は美味しかったのだ。

 

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正月三が日は、吉田さん夫婦にとってここ一番の稼ぎ時。

銭洗弁財天近くに夫婦2台のリヤカーを下ろし、参拝客相手に焼き芋を売る。

洗い清めたお金は、早く使えば使うほど、返ってくる御利益が大きいといわれているからか、あっという間に行列ができる。

山形から、息子さんとお孫さんもお手伝いに来るほどの大繁盛ぶり。

 

長い付き合いのお得意様方とのやり取りもほほえましかった。

特に印象的なのは、とよさんと鎌倉マダムの一場面。

ファーの帽子をかぶり、英国貴婦人のようなおしゃれマダムと、三角巾をまいたエプロン姿の山形弁マダム。

少女のように仲睦まじい姿に自然とこちらも笑顔になった。

出稼ぎと焼き芋を通した多くの一期一会を、大切にするお二人がそこにいた。

 

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あのね、私くらいになると、軽トラから聞こえるスピーカーの音で、団地のどのあたりにいるか大体わかるのよ。

 

ほら、耳をすませて...

 

 

あ、この歌の遠ざかり方....大変だ!団地からもうすぐ出て行っちゃう!

普通の道路に出たら、もうその時速には追い付けないのに!

 

こんな時は、秘密兵器、キックボードの出番である。

といっても、現在の電動タイプなわけがない。

文字通り、キックして前に進む、アナログのものである。

 

だが、自転車にまだ乗れない当時の私は、キックボードを自分の体の一部のように使いこなしていた。

時にそのスピードは、自転車に乗った姉と並走するほどで。

 

なので、焼き芋屋が団地を去る前に捕まえることも容易だった。

もちろん、あと一歩(一蹴り)のところで取り逃がした日もある。その悔しさをばねに、成長したのだ。何の話?

 

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もう一つ素敵なエピソードがある。

政男さんのお得意様の一人に、大きなお屋敷の奥様がいた。

いつも、門の前で焼き芋を待っていた奥様。

 

ところが、ある日を境にめっきりその姿を見かけなくなった。

奥様は、突然帰らぬ人となったのである。

 

政男さんはそのことを知ってなお、リヤカーを引いて、毎度そのお屋敷を通った。

そして、仏様のお供えに、と決まって焼き芋を門の前に置いていくのだ。

 

感激したお屋敷の主人は、政男さんに「自分は絵を描くものだから、是非お礼に絵を贈りたい」と伝える。

 

その主人というのが、日本画の巨匠、鏑木清方さんだったのだ。

吉田さん夫婦もその偶然には大層驚いたという。

 

そうして贈られた絵は、美しく鮮やかに咲く梅の花を描いていた。

 

紅梅の時期、出稼ぎを終え、鎌倉から故郷へ帰る二人を想った美しい絵だった。

 

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小学生になると、焼き芋を買う上で大きな障がいとなる、「恥じらい」がでてくる。

 

焼き芋好きをひた隠しにするしずかちゃんよろしく、こそこそと周囲を伺い、隠れるように焼き芋を買うようになった。

団地の公園には同学年の子がよく遊びに来るので、焼き芋を買う自分の姿が見つかるリスクと隣り合わせだったことも大きい。

ノンデリカシーの男子なんかに見つかれば、「あー!〇〇が焼き芋買ってんぞ―!!」

なんて大声で指をさされもおかしくない。

内弁慶で、学校では「プリティいい子ちゃん」で通っている私にとっては死活問題だった。

 

が、いかんせん移動販売の焼き芋屋というのは、目立つようにできている。

居場所を知らせるあの歌声にさえ、その頃の私は「しぃーっ!!」とでもいいたかった。

 

ああ、無邪気に軽トラを追いかけられた幸せよ。

買いに行くのは恥ずかしい、でも食べたい。

 

考えた末に、「母に焼き芋を買いに行ってもらう」という小学生らしい答えにたどり着いた。今考えると、出資者自らを使いに出すのだから、とんだ禁じ手である。

 

しかし、母だって毎回律儀に行けるわけがない。結局は、恥を覚悟で買いに行くはめに。

 

今でも思い出すのが、とある日の挑戦。

例によってこそこそと焼き芋を買いに行く私。

運悪く公園沿いに軽トラはとまったが、どうやら小学生はいなそうだ。

よし!素早く500円を払って、あとは受け取るだけ。

このころになると、おじさんも私を「時々一人で買いに来る女の子」と認知しているようで。どちらかというと愛想がない方だったが、「いつもありがとね」と、おまけで小ぶりなイモをつけてくれるなど子供には優しかった。

 

だが、そんな優しさを知ってか知らずか、幼い私の心のうちはひどく自分勝手。

  

(も〜はやくはやく、おまけなんていいってば!)

 

まるで思春期の娘である。

待ち望んだ焼き芋を受け取り、安心したのその時、

 

「おーい!待てって ぎゃははは...!」

 

団地の入り口からまっすぐ公園にかけてくるあの姿、

間違いない。泣く子も泣かす、学年きっての悪ガキ軍団だ。

 

メーデーメーデー

 

どうする。ダッシュで家に帰るか。

ダメだ、ルート的に焼き芋を抱えた私とあいつらがちょうど鉢合わせる危険が。

反対方向に逃げるか。いや、もう間に合わない。

 

どうしよう、どうしよう.....

 

 

私はとっさに、焼き芋を胸に抱え、時速20km以下でのろのろと走る軽トラにぴったりくっつき、かがんで歩きはじめた。

 

公園で遊ぶ軍団からの認識は(焼き芋屋が走ってるな~)、ただそれだけだろう。

まさか、その影に同級生の女の子が潜んでいるとは、夢にも思わない。

とっさに思い付いた、嘘みたいな作戦だったが、見事バレることもなく、公園から離れることができた

 

家にたどり着いて食べた焼き芋のおいしさは、ひとしおだった。

 

あの瞬間、私と、焼き芋を載せたおじさんの軽トラは、一体化したのだ。

おじさんは、サイドミラーにうつる、屈んでついてくる怪しい女の子を、見て見ぬふりしてくれたのだろう。

やっぱり、優しいおじさんだ。

 

それでも、あんなに好きだった焼き芋が、私にとって恥ずべき存在になってしまった事に、変わりはなかった。

 

あーあ、本当に思春期と同じよ。後になって気づいてからじゃ、遅いのにね。

 

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夏場は故郷、山辺の畑で野良仕事をする吉田さん夫婦。

 

冬の鎌倉でのことは、お客さんが送ってくれるたくさんのスナップ写真が思い出させてくれる。リヤカーを引いて焼き芋を売る姿、お客さんと並んで笑顔でうつるすがた。

全てが輝いているようで、その裏には苦労が詰まってる。

 

息子さんの、「小学校の入学式、出稼ぎのために(ご両親が)来てくれなかった。」という言葉に、ときさんが「それは親だから気にはなっていた」と申し訳なさそうに口にした。

 

出稼ぎをやめて余生をゆっくりと過ごそうと思っていた矢先、集落で火災があり、家が全焼した。

息子さんから同居を進められたが、家を建て替え出稼ぎ生活を続ける二人。

 

それでも、鎌倉のお客さんたちは、冬を楽しみに待っている。吉田さん夫婦と、美味しい焼き芋にまた会える冬を。

たくさんの人に待っててもらえる人は、幸せだな。

 

でも、わたしにもうあの歌声が聞こえないように、あの蒸気の音が聞こえない冬が、いつかは訪れる。

どれだけの人が悲しむだろう。

たくさんの人に悲しんでもらえる人は、幸せだな。

 

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悪ガキ軍団との間一髪の出来事があったからかもしれないし、

単に、駄菓子屋のお菓子に夢中だったからかもしれない。

 

 

とにかく、学年が上がるにつれ、焼き芋を買いに行くことは少なくなった。

あの歌声をきいても、さおだけ屋や廃品回収の音と同じにしか聞こえなくなった。

 

 

そして、4年生になった私と家族は、新しい町へ引っ越した。

 

それは、生まれ育った団地だけでなく、おじさんの焼き芋との別れでもあったのだ。

 

もしかしたら、

 

もしかしたら、あの軽トラのおじさんも東北から出稼ぎにきたのかも、しれない。

いや、おじさんのおおよその年齢や標準語だったかどうかも、何も覚えてないけれど。

 

でも、もしかしたら。

 

 

....あれ?

そういえば、いつからだろう。あの調子はずれの歌が聞こえなくなったのは。

私の地元だけじゃない。

どこを探しても、めっきりあの頃の焼き芋屋さんの姿は見かけなくなった。

 

代わりに、妙に洗練された焼き芋を、よく見かけるようになった。

あの頃、隠すように小走りで抱えた焼き芋は、堂々と気軽に買える食品となった。

スーパーやドンキホーテの一角には、大抵無人の焼き芋屋がある。

小綺麗な百貨店の食品売り場にも、蜜の滴る高級品種の焼き芋が、スイーツのように並んでいる。

 

 

よろこばしいことかもしれない。

今や焼き芋は出稼ぎの手段ではない。

立派に、ブランド化されているのだ。

リヤカーは、軽トラは、キッチンカーに姿を変えたのかもしれない。

 

 

そうか、そうかもな。

 

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赤レンガ倉庫で「おいも万博」が開催されることを、先日母がLINEで教えてくれた。

 

母が変わらず知っているように、さつまいもは今でもずっと、私の大好物だ。

ただ、もっぱら生の芋を買ってふかすばかりで、焼き芋はもう長いこと買っていない。 

知らぬ間に、比べてしまうからかもしれない。

思い出補正の隠し味も加わって、夢のような美味しさの、あのいつかの焼き芋と。

 

 

 

 

実家に帰ると、稀に冷蔵庫の中に市販の焼き芋がある。 

あの頃と同じく、茶色い紙袋に包まれたそれを温め直して、一口かじってみる。

 

うん。

 

当たり前だが、どうしたって焼きたてには戻らないよな。

 

ネズミがかじったような歯形がついた焼き芋を、そっと台所に置いた。